◆184年4月
潁川黄巾の討伐隊の先陣として出陣した。
開戦すると数で劣る官軍は徐々に押し込まれ、やがて敗走。
勢いそのままに追撃され、皇甫嵩ともども
長社に逃げんだものの包囲される事態となった。
※官軍精鋭4万と言っているが、
禁軍と呼べるほどの精鋭は4000人強で
他は諸軍の寄せ集めと義勇兵であったため
圧倒的な数の差を覆せなかったとも言われる。
◆185年5月
5月に入ると強風が吹き荒れるようになった。
皇甫嵩は好機とみて火計をしかけると火はたちまち燃え広がり、
反乱軍と蜂起した民衆では消化もままならず大混乱に陥った。
この期を逃さず皇甫嵩が城門を開き突撃して敵を敗走させると、
援軍を率いてきた曹操が到着し、敗走する波才に奇襲をしかけた。
波才は大敗して汝南に逃げ込んだものの、
陽翟に逃げたが追いつかれ波才は戦死した。
※皇甫嵩の計ついて田単を参考にしたという記載があるのだが、
鼓舞計を指し火計は別なのか、
城から出れず火牛を使ったということなのか、
それとも両方使ったのか不明。
・火牛の計
牛の角に刃物を結び、尾に草木をぶら下げた上で進路を固定。
草木に火を付けると狂った牛が突進し突撃兵と火計の両役を担う。
・田単の鼓舞計
降るといかにひどい目に遭うかを列挙し、勝つしかない、
そしてそれはできる。とあおって鼓舞。
※曹操は宦官の叔父であることを盾に
法を破るものにも迷うことなく刑罰を加えて殺した。
宦官は曹操を殺してしまいたいと思ったが、
この適法実施をみて犯罪が減った上、
曹操は法をきちんと実施しただけなので手が出せず
栄転という名の左遷をされていた。
曹操が奇襲したタイミングだとするとここで現着して奇襲?
汝南戦にも孫堅が参加しているのでここで奇襲?