ホントの三国志を考える試み。(正史重視)

三国志正史と史実に近い書を主軸に武将を見つめる試み

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2017-09-01から1ヶ月間の記事一覧

三国志12 涼州反乱

◆184年 11月 張角の軍勢が完全に鎮圧されたころ、 涼州では羌族と盗賊が反乱を起こし、 さらに枹罕の宋建・王国が漢に従属していた 北宮伯玉・李文侯を将に立てて反逆した。 しかし、宋建・王国は金城郡までくると、 金城従事韓約と帰順について話をしたいと…

三国志11 論功褒賞(黄巾の乱)と謀反のささやき

黄巾の乱が平定されると諸将には次々と恩賞が与えられていたが、 荊州刺史の徐璆は 昔、董太后より姉の子である 南陽太守張忠を特別扱いしろとの命を 国益に反することはできないと拒絶し 張忠とその息のかかったものの不正を摘発していたため 宦官と結託し…

三国志10 黄巾の乱(都・宮殿内)

黄巾の乱が始まると宮殿では 張鈞が霊帝に対し、 中常侍に任命された12名の宦官たちが 十常侍という派閥を形成し、 それぞれが列侯となるだけにとどまらず、 一族を各地の地方官に任命し 私腹を肥やしていることが 争乱の元凶である と上奏し、この十常侍を…

三国志9 劉備(若)

◆175年 黄巾の乱の9年前、いとこの劉 徳然とともに後漢の名将 盧 植に師事した15歳の男がいた。 彼の名は、劉備・玄徳。(玄徳は字名) 劉備は盧 植に学問を学ぶだけでなく 乗馬・狩猟・音楽を趣味としこれに勤しんだ。 学友である公孫瓚は物事の説明が上手…

三国志8 黄巾の乱(最後の戦い)

◆184年10月 冀州討伐を命ぜられた皇甫嵩であったが、 冀州の官軍は敗走により士気は落ち込んでおり 張角・張梁の軍勢に苦戦を強いられていた。 しかし、事態は急変する。 乱開始より病気がちであった敵の筆頭 張角が病死したのである。 張角の軍勢は張梁が引…

三国志7 黄巾の乱(豫州・南陽黄巾討伐戦)

◆184年6月 盧植が連行されるころ波才を討った皇甫嵩・朱儁らは 西華へと進撃、汝南黄巾を集めた彭脱を討ち、 その勢いのまま陳郡(淮陽県)でも黄巾を蹴散らした。 すると、豫州刺史となった王允が 荀爽・孔融らを引き連れて黄巾の別動隊を討ち 豫州に迫った…

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