◆187年 涼州
三輔地方へ侵攻をはじめた。
◆188年11月
王国は、車騎将軍を自称し陳倉を包囲した。
朝廷は皇甫嵩を呼び出し、左将軍に任命。
董卓と各2万の兵を率いて敵を討てと命を下した。
◆名将再び
「賢者とは時を間違えず、勇敢な男は躊躇しない。
こんな速度で進んでいたら、
城が保たれている間に到着できず城は灰となって消え、
形勢は決定し我らも壊滅するだろう。」
と詰め寄ったが、
皇甫嵩は、
「百戦百勝は戦わずして勝つに及ばず。
およそ負けるとき理由は自分にあるが、
勝つとき理由は相手にあるものである。
いま敵は不敗の城を攻めているが、
その士気はとても高い。
ゆえに落ちぬ城を攻め続けさせ
一気に賊を制圧する時を待っているのである。」
といい董卓の提案を却下した。
◆189年春
王国は80日攻めまくっても
陳倉城は簡単に弾き返し、王国が撤退を始めると、
皇甫嵩は号令を出し追撃を指示した。
すると、また董卓が来て、
「兵法では、窮地の敵を追わず、帰る敵も追わずと言う。
いま敵は後退しているとはいえ、いまだ大軍であり、
毒を持った群れに飛び込むようなものだ。」
と言った。
しかし、皇甫嵩は、
「私はこの時を待っていたである。
敵は戦意を失い、疲れ果て敗走しているような状態であり、
帰る敵に非ず。故に軍を整え乱を討つのである。」
といい、董卓を後に残して追撃し、
韓遂が総敗北の後、主の王国を追放すると、
権力争いが起こり反乱軍は内部崩壊。
軍勢は四散して反乱軍は力を失った。
(王国も混乱中死亡)
反乱が落ち着いたので、
董卓は治安の維持を名目に兵を返さなかった。
兵を返して赴任するように言われたが、
董卓はまたしても理由をつけて兵を率いたまま河東に駐屯した。