◆186年
張温が都に呼び出されていると、
反乱軍のリーダーであった辺章が病死した。
辺章が病死すると韓遂は北宮伯玉・李文侯を殺して、
十万余りの軍勢を統治下におき、
隴西を包囲して太守李相如を寝返らせた。
◆白馬将軍公孫瓚出兵
先の涼州討伐戦で、参加を申し出たが断られていた男がいた。
彼の名は張純、元中山太守である。
その一方で張温の抜擢を受け、従軍が決まった男もいた。
朝廷はその公孫瓚に、
幽州の精鋭突騎3000を率いて
涼州の援軍に向かうように命を下した。
◆187年
自身は無視されたことへの怒りが収まらず、
烏桓2大王のひとり、丘力居のもとへ走った。
※勝手に王を名乗ってる2人を合わせると烏桓には4人の王がいた
張純は丘力居の助力を得て弥天安定王を自称し、
同郷の元泰山太守張挙を取り込み、
烏桓3群の指揮官として薊周辺で蜂起、
右北平太守劉政や遼西太守の楊終などを
殺害して官民を拉致した。
張純の軍勢は、後漢へ不満をもつ漢民族を巻き込み10万にも上り、
幽州・青洲・冀州・徐州を荒らしまわった。
◆幽州の精鋭
このころ、援軍の命を受けた公孫瓚は
たまたま薊を通過中であったため、
張純反乱の報を聞くやいなや精鋭とともに
張純の軍勢へ攻撃をしかけた。
鄒靖から弱兵であるため、鮮卑の兵を呼ぶべき
と言われたクオリティである。
精鋭を率いる公孫瓚は薊の張純軍を瞬く間に蹴散らし、
騎都尉に奉じられ、引き続き張純討伐を行うこととなった。
※鄒靖案はボツになった
力を借りれたとしても先々で略奪を働くでしょう。
一方、羌族の中には反乱に参加しなかったものがいるので、
羌族から募る方がよいでしょう。と進言したため。
◆石門合戦
薊で敗走した張純は軍勢を集め、
後漢からの独立を考える丘力居の軍勢も
張純に加勢して遼東に集結。
一方、鎮圧軍の指揮官となった公孫瓚も軍を進め、
両軍は石門にて激突した。
遼東属国長史時代に、数十騎で数百騎の
鮮卑兵を破り令となった実績があって
抜擢された人物である。
数が増えただけで張純が到底勝てる相手ではなかった。
張純連合は大敗北の末、逃げるだけで精一杯となり、
公孫瓚に拉致した官民を取り返された上、
長城を越えてまで追い回された。
◆両軍撤退
公孫瓚は勢いに乗って進軍したが、
軍を再編した丘力居に包囲されてしまった。
公孫瓚と丘力居の激闘は、
数百日に及んだが食料が尽きたため両軍とも撤退した。