ホントの三国志を考える試み。(正史重視)

三国志正史と史実に近い書を主軸に武将を見つめる試み

三国志14 張純の反乱

 

◆186年

 

張温が都に呼び出されていると、

反乱軍のリーダーであった辺章が病死した。

 

辺章が病死すると韓遂は北宮伯玉・李文侯を殺して、

十万余りの軍勢を統治下におき、

隴西を包囲して太守李相如を寝返らせた。

董卓伝では辺章も韓遂が殺している)

 

 

◆白馬将軍公孫瓚出兵

 

先の涼州討伐戦で、参加を申し出たが断られていた男がいた。

彼の名は張純、元中山太守である。

 

その一方で張温の抜擢を受け、従軍が決まった男もいた。

彼の名は公孫瓚劉備の学友にして盧植の門弟である。

 

朝廷はその公孫瓚に、

幽州の精鋭突騎3000を率いて

涼州の援軍に向かうように命を下した。

 

 

 ◆187年

 

張純は、孫堅陶謙が選ばれながら、

自身は無視されたことへの怒りが収まらず、

烏桓2大王のひとり、丘力居のもとへ走った。

 

※勝手に王を名乗ってる2人を合わせると烏桓には4人の王がいた

 

張純は丘力居の助力を得て弥天安定王を自称し、

同郷の元泰山太守張挙を取り込み、

烏桓3群の指揮官として薊周辺で蜂起、

右北平太守劉政や遼西太守の楊終などを

殺害して官民を拉致した。

 

張純の軍勢は、後漢へ不満をもつ漢民族を巻き込み10万にも上り、

幽州・青洲・冀州・徐州を荒らしまわった。

 

 

◆幽州の精鋭

 

このころ、援軍の命を受けた公孫瓚

たまたま薊を通過中であったため、

張純反乱の報を聞くやいなや精鋭とともに

張純の軍勢へ攻撃をしかけた。

 

烏桓の兵というのは、185年に皇甫嵩が招集しようとした際に

鄒靖から弱兵であるため、鮮卑の兵を呼ぶべき

と言われたクオリティである。

 

精鋭を率いる公孫瓚は薊の張純軍を瞬く間に蹴散らし、 

騎都尉に奉じられ、引き続き張純討伐を行うこととなった。

 

 

※鄒靖案はボツになった

鮮卑服従しておらず、

力を借りれたとしても先々で略奪を働くでしょう。

一方、羌族の中には反乱に参加しなかったものがいるので、

羌族から募る方がよいでしょう。と進言したため。

 

 

◆石門合戦

 

薊で敗走した張純は軍勢を集め、

後漢からの独立を考える丘力居の軍勢も

張純に加勢して遼東に集結。

 

一方、鎮圧軍の指揮官となった公孫瓚も軍を進め、

両軍は石門にて激突した。

 

 

公孫瓚後漢の名将盧植の門弟であり、

遼東属国長史時代に、数十騎で数百騎の

鮮卑兵を破り令となった実績があって

抜擢された人物である。

 

数が増えただけで張純が到底勝てる相手ではなかった。

 

張純連合は大敗北の末、逃げるだけで精一杯となり、

公孫瓚に拉致した官民を取り返された上、

長城を越えてまで追い回された。

 

 

◆両軍撤退

 

公孫瓚は勢いに乗って進軍したが、

軍を再編した丘力居に包囲されてしまった。

 

公孫瓚と丘力居の激闘は、

数百日に及んだが食料が尽きたため両軍とも撤退した。

 

 

 

 

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