◆187年 涼州
張純が反乱を起こしたのと同じ187年、
ところが程球は、
職務を怠り賄賂がなければ全うに取り合いもせず、
おまけに氐や羌族について事実と異なる報告をした。
涼州刺史耿鄙は、これを討つべく6郡の軍勢を集め、
184年の羌族侵攻で功績のあった
馬騰を軍司馬(将軍の属官)に任命し、
程球を先棒として出陣した。
◆名将 傅燮(フショウ)字は南容。
このとき漢陽太守に傅燮という武将がいた。
護軍司馬として兵を率い張角本隊を打ち破るなど
多大な功績を挙げた名将である。
ところがその最中、
「臣は兵を率いて潁川にて黄巾と幾度も戦いましたが、
勝てないほどではありませんでした。」
「天下の禍は内側から起こるものであり、讒言・姦佞の輩を討つべきです。」
と趙忠らの誅殺を進言したため
恨みを買って候ではなく安定郡都尉に奉じられることとなり、
(後に病気で退官、そののち議郎として復職)
さらに趙忠が車騎将軍になったとき、
帝の命で黄巾の乱の褒章を改めて?追加で?行うこととなったが、
傅燮のことを恨んでいたためありえないほど低く評価した。
この傅燮の扱いには多くの民が失望したため、
趙忠は弟を使者にたて、特別褒章を用意し、
以後中常侍のいうことを聞くなら
万戸候にもなれると言った。
すると、傅燮は
天下のために戦ったのに
どうして個人的な褒章を受けることができましょうか。と断った。
趙忠はその報告を聞いて怒り狂い傅燮を殺そうと考えたが、
声望がありすぎて殺すに殺せず、やむなく漢陽太守に左遷した。
◆傅燮の声望
涼州の反乱の際、
司徒崔烈が諸将が集まる場で涼州は切り捨ててしまおうと発言、
これを聞いた傅燮は怒り、いますぐ崔烈を斬るべきだと述べた。
田土・財貨・教育をつかさどる大臣的権力を持ち
三公に次ぐ地位である司徒を斬れといったのだから、
この話はすぐさま霊帝の耳に入り、呼び出しを受けたが、
傅燮は、
「涼州は漢の壁と呼ぶべき場所であり、財貨や物資も豊富であり、
ここを賊に落とされれば大いなる憂いとなるでしょう」
と述べ、
さらに故事を交えながら、
涼州を守らなければならない理由を理路整然と述べた。
傅燮はその後も厳正な行動を続け、天下の人々から尊敬を集めた。
◆傅燮の進言
傅燮は耿鄙の出陣を聞くと急いで止めに向かい、
兵は教育も練兵もなされず戦い方を知らないこと、
統治機能が失われつつあり、
また信賞必罰が明確でなく統制がとれない恐れがあること、
賊が一枚岩でないためいつ内部崩壊するかわからないこと
などを挙げ、出陣を思いとどまるように言った。
◆裏切り~187年4月
耿鄙は傅燮の進言を無視し、
隴西方面の狄道まで軍をすすめたが、
部下が裏切って程球を殺し、さらに耿鄙も殺した。
この混乱に乗じて軍を進めた韓遂に漢陽城も包囲された。
漢陽は兵も少なく、とても戦える状態ではなかったが、
傅燮は城に籠り頑なに防衛した。
しかし、漢陽は傅燮が赴任後、
陣営を連動させ開墾事業を行ったとはいえ、
元がひどすぎたうえ、傅燮が民を労わっていたため
蓄えはなく兵糧が底をついた。
◆誰もが傅燮を殺したくはない
羌族をはじめ他民族との融和を図っていた傅燮に対し、
彼を故郷に帰したいと助命を嘆願し、
傅燮の子も父に降伏をすすめた。
すると傅燮は息子に、
聖人は義を成し、それに次ぐ者もまた義を守るのだ。
漢は廃れたとはいえ紂王のときほどひどくはない。
紂王に対して忠を尽くし周の粟を食べなかった
伯夷を孔子も賢人だとたたえている。
私は死を覚悟している。汝にも才があるのだ。努力せよ。
と道義をもって説教し、
最後まで忠を尽くすことを宣言した。
この話を聞いていた将校は涙を流し覚悟を決めた。
その後も将軍の地位を約束するなどとして使者が来たが応じず、
最後に謀反しながら降伏をすすめにきた将がくると、
割り符を与えられた臣下のくせに恥を知れと大喝して追い返し、
最後の兵を連れ突撃して傅燮は散った。
涼州の状況はさらに悪化した。