ホントの三国志を考える試み。(正史重視)

三国志正史と史実に近い書を主軸に武将を見つめる試み

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三国志正史ベース 208年赤壁の戦い(後編)

◆208年12月

 

曹操劉備を討つため長江を南進し、

一方、周瑜曹操を討つべく出陣した。

 

両軍は赤壁の地で遭遇したが、

曹操の軍勢は疫病に侵されており、

一度の激突で不利と見た曹軍は後退した

 

 

曹操長江の北で再展開した船団を見た

黄蓋周瑜のもとへ進み出て

 

曹操の軍勢は多数なれど、船は密集し

 前船の船尾と後船の船頭が近く、

 火攻めをすれば破ることができます。」

 

と進言した。

 

周瑜も火計を考えていたためこれに同意し、

黄蓋は、偽の降伏文を作り上げて曹操へと使者を出した。

 

演義ではカン択が使者となるが、

そんなことはどこにも書いていない。

また、生贄になる蔡和とかいうやつらは正史には存在しない。

 

 

曹操は使者を問いただしたが、降伏文には

 

「呉の臣は賢愚を問わず降伏をしたいと考えていますが、

 周瑜魯粛の二人だけが承知しないのであります。」

 

など軍議の事実が書かれていたので

使者は本当のことをいうだけでそれをかわすことができ、

 

曹操

「信用するには不安はあるが、

 もしこの通りできたならば

 かつてないほどの恩賞を与える」

と約束した。」

 

 

周瑜と作戦を練った黄蓋は、10余りの

闘艦乾燥した木材をつぎ込み、

魚の油をかけると幕をして

青龍旗や将軍旗を立てて偽装し、

闘艦の後尾には隠れるように

選びだした走舸をつないだ。

 

※この走舸には、

魚の油まみれの草や枯れ木、乾燥した木などを積んだ。

 

この時期、稀にふく東南の風の日、

黄蓋は松明を持って軍船を発進させ、

大声で降伏を叫ばせながら近づき、

2里の距離になると闘艦に火を放って

走舸を分離して船を突進させた。

 

切り離された走舸は

呉の手練によって機動火船と化して

広範囲の曹操の船に突撃し、

曹操の船団は火の海と化した。

 

 

周瑜は、この火計の成功を見越し、

甘寧周泰呂蒙らに軽装精鋭を与え、

 

火の手があがったところを中心に攻撃し、

敵を討つだけでなく、

「ドラ・鼓を打ち鳴らし

さらに火を放って恐怖をあおれ」

と指示を出していたため

曹軍は大混乱に陥り、

袁家や劉表の兵は我先にと逃げ出した。

 

 

炎の海は東南の強風にあおられ

ついには岸の軍営までをも焼き払い、

 

おびただしい焼死・溺死者をだした曹軍は

烏林まで後退して陣をはった。

 

 

周瑜は長江を挟んで対峙したが、

機をみて密かに部隊を渡らせて強襲し、

敗走に追い込むとともに船をも焼き払った。

 

 

曹操は撤退しようとしたが

今度は劉備の攻撃を受け、

なんとか脱出したものの船を焼かれ

徒歩で帰るよりなくなった。

 

 

周瑜諸葛亮

曹操の退路を読み水陸から追撃したため、

兵は食事もとれず多数が餓死し、

曹操を逃がすために多くの将が戦死した。

(疫病が悪化して病死したものも多数いた)

 

 

それでも、辛うじて曹操

江陵に逃げ込むことに成功。

ここに曹仁を残して襄陽まで退き、

楽進に襄陽を託して

ようやく帰途についた。

 

演義とは違い関羽

退路を絶たれてはいないので

命乞いなどしていない 

 

※烏林の戦いの最中黄蓋は流れ矢を受けて

船から昏倒し海に落ちた。

その後助け出されたが、

誰だか分からないほどになっていたので

トイレに放置された。

黄蓋韓当の声を聞き、

最後の力を振り絞って

韓当の名を叫んだ。

 

韓当黄蓋のかすれた声を聞きとり

辺りを探すとトイレで変わり果てた

黄蓋の姿を見つけた。

 

韓当は涙を流して、

こちらにいるのは公覆(黄蓋)さまだ

と言って衣服をかえ手当をさせた。

 

 

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