ホントの三国志を考える試み。(正史重視)

三国志正史と史実に近い書を主軸に武将を見つめる試み

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三国志正史をベースとした 208年 赤壁の戦い(前編1)

体調と仕事の都合で先に赤壁の戦い

 

◆208年 夏

 

劉表が病死すると魯粛孫権に、

天下をとる第一歩は荊州を得ることであると説き、

自身を弔問の使者として、向かわせるように願い出た。

 

・その際の魯粛の献策

 

劉表の2人の子は才が足りない上に仲が悪く派閥も割れているが、

劉表らがその才を憎んだために重要されなかった

劉備には荊州を率いる才がある。

 

もし、劉備劉表の子と力を合わせ荊州をひとつにしたならば

曹操に対抗しうる戦力となる。

 

よって、劉備に会い説得して劉表の軍勢を取り込ませた上で

盟友として手懐ける。

 

また、それに失敗した場合、荊州を奪う布石として

劉表の要人を籠絡した上で、呉に戻り計を図る。

 

 

◆208年 9月

 

魯粛孫権の許可を得て、弔問の使者としてすぐ立っていたが、

南郡を通過したあたりで曹操荊州に侵攻。

 

劉琮は一度も戦うことなく降伏し、

劉備はひたすら南に逃走した。

 

魯粛はやむなく劉備の逃亡先に赴き、

当陽の地で劉備と面会した。

 

劉備の軍勢はもはや1軍にも満たないほどに壊滅しており、

劉琦の兵がなければ悲惨な状態であったため、

劉備は呉の意向を聞いて歓喜した。

 

要件が終わると、魯粛劉備の隣りにいる

諸葛亮に私は子瑜(諸葛瑾)どの友です。

と挨拶し二人は交わりを結んだ。

 

この後、夏口で劉琦と合流した劉備の軍勢は

合わせて1万余りとなった。

 

魯粛が呉に戻るとき、劉備は夏口で見送りつつ、

さらに諸葛亮を使者として呉に派遣した。

 

演義では劉備から情報を聞き出そうとした魯粛

 諸葛亮にうまいことやられたりするが、

 史実では北方情勢など周瑜魯粛も把握済みである)

 

 

 

◆呉

 

かつて、曹操が人質を要求したとき

周瑜の意見を採用しはねのけていた呉でも、

荊州水軍を手に入れた数十万の軍には勝てないとの空気が漂い、

 

孫権が軍議を開くと、

張昭・秦松といった呉の臣は声を揃えて降伏を主張した。

しかし、魯粛だけは一言も喋らずにただ口を閉ざしていた。

 

 

孫権がトイレに立つと、魯粛はそのあとを追って出た。

魯粛が軒場に出ると孫権魯粛の手を握り、意見を求めた。

正史では孫権魯粛のことを知恵者として厚く信頼している)

 

すると魯粛は、

 

「じっと聞いていましたがどれもこれも

 大事を図るに足らない議論ばかりで論を交わすに値しません。」

 

「私は降伏を主張しても、そこそこの名声があり、

 ある程度の身分は保証されている上、

 結果を出せば太守にもなれますが、

 孫権様は十余人の従者を持つのが精一杯で

 どこにいっても落ち着くことはできないでしょう。」

 

「ゆえに臣に降伏はできても孫権様には降伏などできないのです。

 公瑾どのを呼び戻し、急ぎ大計を立てられますように。」

 

というようなことを述べた。

 

 

孫権は、

「嘆息し失望する意見ばかりであったが、

 魯粛の意見は私の考えるところとわずかな齟齬もない。

 魯粛は天が私に与えたものだ。」

 

と述べ周瑜のもとへ急使を飛ばした。

 

 

 

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