ホントの三国志を考える試み。(正史重視)

三国志正史と史実に近い書を主軸に武将を見つめる試み

三国志16 後漢の忠臣

◆187年 涼州

 

張純が反乱を起こしたのと同じ187年、

涼州では、涼州刺史耿鄙が治中従事程球に政治を委ねていた。

 

ところが程球は、

職務を怠り賄賂がなければ全うに取り合いもせず、

おまけに氐や羌族について事実と異なる報告をした。

 

氐、羌族は怒り反乱を起こし、韓遂はそれに乗じて行動した。

 

涼州刺史耿鄙は、これを討つべく6郡の軍勢を集め、

184年の羌族侵攻で功績のあった

馬騰を軍司馬(将軍の属官)に任命し、

程球を先棒として出陣した。

 

 

◆名将 傅燮(フショウ)字は南容。

 

このとき漢陽太守に傅燮という武将がいた。

 

傅燮張角討伐戦において、皇甫嵩の指揮下で

護軍司馬として兵を率い張角本隊を打ち破るなど

多大な功績を挙げた名将である。

 

 

 ところがその最中、

 

「臣は兵を率いて潁川にて黄巾と幾度も戦いましたが、

勝てないほどではありませんでした。」

「天下の禍は内側から起こるものであり、讒言・姦佞の輩を討つべきです。」

 

趙忠らの誅殺を進言したため

恨みを買ってではなく安定郡都尉に奉じられることとなり、

(後に病気で退官、そののち議郎として復職)

 

 

さらに趙忠が車騎将軍になったとき、

帝の命で黄巾の乱の褒章を改めて?追加で?行うこととなったが、

傅燮のことを恨んでいたためありえないほど低く評価した。

 

この傅燮の扱いには多くの民が失望したため、

趙忠は弟を使者にたて、特別褒章を用意し、

以後中常侍のいうことを聞くなら

万戸候にもなれると言った。

 

すると、傅燮

天下のために戦ったのに

どうして個人的な褒章を受けることができましょうか。と断った。

 

趙忠はその報告を聞いて怒り狂い傅燮を殺そうと考えたが、

声望がありすぎて殺すに殺せず、やむなく漢陽太守に左遷した。

 

 

傅燮の声望

 

涼州の反乱の際、

司徒崔烈が諸将が集まる場で涼州は切り捨ててしまおうと発言、

これを聞いた傅燮は怒り、いますぐ崔烈を斬るべきだと述べた。

 

田土・財貨・教育をつかさどる大臣的権力を持ち

三公に次ぐ地位である司徒を斬れといったのだから、

この話はすぐさま霊帝の耳に入り、呼び出しを受けたが、

 

 

傅燮は、 

涼州は漢の壁と呼ぶべき場所であり、財貨や物資も豊富であり、

ここを賊に落とされれば大いなる憂いとなるでしょう」

と述べ、

 

さらに故事を交えながら、

涼州を守らなければならない理由を理路整然と述べた。

 

霊帝は納得し、咎めることをやめ朝廷で使うことにした。

傅燮はその後も厳正な行動を続け、天下の人々から尊敬を集めた。

 

 

傅燮の進言

 

傅燮は耿鄙の出陣を聞くと急いで止めに向かい、

 

兵は教育も練兵もなされず戦い方を知らないこと

統治機能が失われつつあり、

また信賞必罰が明確でなく統制がとれない恐れがあること、

賊が一枚岩でないためいつ内部崩壊するかわからないこと

などを挙げ、出陣を思いとどまるように言った。

 

 

◆裏切り~187年4月

 

耿鄙は傅燮の進言を無視し、

隴西方面の狄道まで軍をすすめたが、

部下が裏切って程球を殺し、さらに耿鄙も殺した。

 

この混乱に乗じて軍を進めた韓遂漢陽城も包囲された。

 

 

漢陽は兵も少なく、とても戦える状態ではなかったが、

傅燮は城に籠り頑なに防衛した。

 

しかし、漢陽傅燮が赴任後、

陣営を連動させ開墾事業を行ったとはいえ、

元がひどすぎたうえ、傅燮が民を労わっていたため

蓄えはなく兵糧が底をついた。

 

 

◆誰もが傅燮を殺したくはない

 

羌族をはじめ他民族との融和を図っていた傅燮に対し、

韓遂らの命令で攻撃に参加していた数千の胡兵は、

彼を故郷に帰したいと助命を嘆願し、

 

傅燮の子も父に降伏をすすめた。

すると傅燮は息子に、

 

聖人は義を成し、それに次ぐ者もまた義を守るのだ。

漢は廃れたとはいえ紂王のときほどひどくはない。

紂王に対して忠を尽くし周の粟を食べなかった

伯夷を孔子も賢人だとたたえている。

私は死を覚悟している。汝にも才があるのだ。努力せよ。

 

と道義をもって説教し、

最後まで忠を尽くすことを宣言した。

 

この話を聞いていた将校は涙を流し覚悟を決めた。

 

 

その後も将軍の地位を約束するなどとして使者が来たが応じず、

最後に謀反しながら降伏をすすめにきた将がくると、

割り符を与えられた臣下のくせに恥を知れと大喝して追い返し、

最後の兵を連れ突撃して傅燮は散った。

 

傅燮が死ぬと馬騰は、韓遂と結んで漢を裏切り、

涼州の状況はさらに悪化した。

 

 

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