◆188年
張温が率いる官軍本隊も
張純が起こした反乱軍の討伐に乗り出していたが、
平定することはできずにいた。
188年に入ると、後漢朝廷は、
後漢の東海恭王の末裔である劉虞を幽州の牧に任命した。
◆徳が武を超える
劉虞は黄巾の乱以前から公平にして清廉潔白で
仁をもってことを行う徳者として知られ、
病で官を退いていたあとも、民衆はもめ事が起こると
役所へはいかず劉虞のもとに行き裁定を願った。
劉虞は復職してからも、徳望を重ね、
その仁徳は漢を越えて烏桓にも知れ渡っていた。
劉虞は、赴任すると懐柔策をとり、
贈り物をして、話し合いによる従属を目指した。
丘力居も、かねてから劉虞の徳望を聞き及んでいたため、
劉虞赴任の報と懐柔を聞くと喜び自ら通訳を派遣した。
※丘力居は武人であり知恵者ではなかったが、
5000の集落を束ねる王であり、相応の識見は持っていた。
そのため、後漢による支配ではなく、
劉虞に帰順従属するのであればよいと考えた。
一国と戦う他国の王が、
一人の男の元になら従ってもよいと考えたのである。
◆公孫瓚の愚行
ことはすんなりとは進まなかった。
手柄を奪われることを恐れた、
公孫瓚が劉虞の贈り物を強奪し、
丘力居の通訳も捕まえて殺したのである。
しかし、劉虞は強奪は公孫瓚のしわさと見抜き、
別の使者を丘力居のもとへ向かわせ、
張純の首を差し出し帰順するように説得した。
丘力居はこれを受け入れるという使者を出したが、
公孫瓚は異民族は何度も裏切っているので
武力支配あるのみと考えており、この使者も殺した。
またしても通訳を殺された丘力居であったが、
次の使者には卓越したものを選びだして
直接劉虞のもとに行くように命じた。
4月、使者は間道を抜けて劉虞のもとへたどり着き降伏を伝えた。
◆張純の最後
丘力居が降ったと知るや否や、
張純は妻子を捨てて鮮卑へ逃亡した。
さらに劉虞は張純を賞金首にしていたため、
◆公孫瓚と劉虞の対立
丘力居が降伏したことで、劉虞から右北平の防将として
歩・騎兵1万の指揮とされていた公孫瓚だが、
ここに烏桓の貪至王が騎兵を率いて降伏してきた。
すると、公孫瓚はこの騎兵を自軍に編入して
遼東属国に駐屯し、5-6年の間烏桓と戦闘を続けた。
劉虞は他の王も恩賞を与え懐柔しようとしたが、
公孫瓚はそんなことをしたら漢が見くびられるとして、
劉虞の動向を探り徹底的に妨害した。
劉虞は公孫瓚と話し合いを求めたが、
公孫瓚はいつも病と偽って会おうとしなかったため、
両者の間には深い溝が生まれた。