ホントの三国志を考える試み。(正史重視)

三国志正史と史実に近い書を主軸に武将を見つめる試み

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三国志15 張純の最後

◆188年

 

張温が率いる官軍本隊も

張純が起こした反乱軍の討伐に乗り出していたが、

平定することはできずにいた。

 

188年に入ると、後漢朝廷は、

後漢の東海恭王の末裔である劉虞を幽州の牧に任命した。

 

 

◆徳が武を超える

 

劉虞黄巾の乱以前から公平にして清廉潔白で

仁をもってことを行う徳者として知られ、

病で官を退いていたあとも、民衆はもめ事が起こると

役所へはいかず劉虞のもとに行き裁定を願った。

 

劉虞は復職してからも、徳望を重ね、

その仁徳は漢を越えて烏桓にも知れ渡っていた。

 

劉虞は、赴任すると懐柔策をとり、

贈り物をして、話し合いによる従属を目指した。

 

丘力居も、かねてから劉虞の徳望を聞き及んでいたため、

劉虞赴任の報と懐柔を聞くと喜び自ら通訳を派遣した。

 

 

※丘力居は武人であり知恵者ではなかったが、

5000の集落を束ねる王であり、相応の識見は持っていた。

そのため、後漢による支配ではなく、

劉虞に帰順従属するのであればよいと考えた。

 

一国と戦う他国の王が、

一人の男の元になら従ってもよいと考えたのである。

 

 

公孫瓚の愚行

 

ことはすんなりとは進まなかった。

 

手柄を奪われることを恐れた、

公孫瓚が劉虞の贈り物を強奪し、

丘力居の通訳も捕まえて殺したのである。

 

 

しかし、劉虞は強奪は公孫瓚のしわさと見抜き、

別の使者を丘力居のもとへ向かわせ、

張純の首を差し出し帰順するように説得した。

 

丘力居はこれを受け入れるという使者を出したが、

公孫瓚は異民族は何度も裏切っているので

武力支配あるのみと考えており、この使者も殺した。

 

 

またしても通訳を殺された丘力居であったが、

次の使者には卓越したものを選びだして

直接劉虞のもとに行くように命じた。

 

4月、使者は間道を抜けて劉虞のもとへたどり着き降伏を伝えた。

 

 

◆張純の最後

 

丘力居が降ったと知るや否や、

張純は妻子を捨てて鮮卑へ逃亡した。

 

しかし、劉虞の懐柔策は匈奴鮮卑にも及んでおり、

さらに劉虞は張純を賞金首にしていたため、

張純は鮮卑の地で食客に殺害され、劉虞のもとに首が送られた。

 

 

公孫瓚と劉虞の対立

 

丘力居が降伏したことで、劉虞から右北平の防将として

歩・騎兵1万の指揮とされていた公孫瓚だが、

ここに烏桓の貪至王が騎兵を率いて降伏してきた。

 

すると、公孫瓚はこの騎兵を自軍に編入して

遼東属国に駐屯し、5-6年の間烏桓と戦闘を続けた。

 

劉虞は他の王も恩賞を与え懐柔しようとしたが、

公孫瓚はそんなことをしたら漢が見くびられるとして、

劉虞の動向を探り徹底的に妨害した。

 

 

劉虞公孫瓚と話し合いを求めたが、

公孫瓚はいつも病と偽って会おうとしなかったため、

両者の間には深い溝が生まれた。

 

 

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