ホントの三国志を考える試み。(正史重視)

三国志正史と史実に近い書を主軸に武将を見つめる試み

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三国志13 韓遂討伐戦1次

皇甫嵩が罷免されると、同じく戦果をあげられなかった

董卓はなぜか破虜将軍に昇格したが

いまだ成果を上げることはできていなかった。

 

そのため、董卓は張温の指揮下に置かれることとなった。

  

 

出征に際し、張温には執金吾「袁滂」が副将としてつけられ、

盪寇将軍「周慎」も指揮下に置かれた。

 

また、従軍を願い出た「陶謙」も軍師としてつけられたが、

張温はさらに孫堅」を参軍として従軍させることを希望したため

孫堅も従軍することとなった。

 

 

◆激突前

 

張温は正規軍の他に諸郡からも兵を集めていると董卓

 

宦官どもを皆殺しにすれば戦わなくとも反乱は治まるだろう

 

と誅殺を進言してきたが張温は恐怖にかられてこれを断った。

 

 

美陽決戦に備えて集結した10万の兵を布陣していると、

孫堅董卓が軍規を無視してやりたい放題やっていることに

激怒して張温に董卓の処刑を進言した。

 

しかし、張温は騎兵戦での董卓の能力を買いこれを却下した。

 

 

◆激突

 

韓遂数万の騎兵を中心とした軍勢で美陽に布陣すると、

まもなく両の激突がはじまったが官軍は押しこまれた。

 

 

◆185年11月

夜になると突然、流星群が現れ

韓遂の陣営を照らしながら流れていった。

 

反乱軍は不安にかられて急遽後退を始め、

官軍の士気は回復。

 

この期を逃さず、鴻・董卓は反乱軍を追撃し大破した。

 

韓遂は金城郡の楡中城に逃げ込み、羌族の本隊と逸れた。

 

 

張温は周慎に3万の兵を与え孫堅を軍師としてつけ

別動隊でもって楡中城を包囲するように指示を出し、

董卓らと羌族の追撃にあたった

 

 

楡中城攻略戦

 

孫堅楡中城には十分な兵糧庫がない上に

急遽逃げ込んだので蓄えもないことを調べ上げ、

 

周慎に対して、

「賊は必ず外から兵糧を運び込みます。

まず私が1万の兵を率いて糧道を絶ちますので、

将軍は本隊を引き連れて後詰めとなり手柄を立ててください」

 

と述べたが周慎はこれを却下して正攻法をとった。

 

 

しかし、周慎の用兵が杜撰なために

ひそかに城を抜け出した敵にあべこべに

官軍の糧道が絶たれた。

 

すると、周慎は衣類を積んだ

輸送車もなにもかも捨てて逃走し行方不明になった。

 

 

 

董卓水計にて難を逃れ、官軍本隊は大敗北す

 

一方、羌族を追撃していた董卓は数万の羌族に囲まれ

食料も尽きてきたため脱出を思案していたが、

川の水位を見て水計を思いついた。

 

董卓は兵に魚をとるように命じ、

それとは別に水流を遮断する部隊を出し、

期が満ちると密かに軍を通過させ、

渡りきるとすぐに遮蔽物を破壊させた。

 

水流はたちまち激しくなって水位は上がり、

馬を主体とする羌族は追撃をすることができず

董卓は無事に扶風に退くことに成功した。

 

一方、董卓以外の官軍は次々に蹴散らされて敗走した。

 

 

※周慎が外壁を破壊した段階で、

本隊に報告の使者を出していたという記述がある。

(その後、糧道遮断を聞いて周慎は失踪するが

 

仮に張温に、あと一歩で韓遂を討てるという報告がきて、

周慎が失踪したためにそのあとの報告がなかったとすると、

官軍にとって予想外の事態が多発して大敗北したのかもしれない。

 

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◆一方、都では

 

都では火災が発生し宮殿の一部を焼失。

修繕費として各地に追徴課税され

民が貧困にあえいだが、

この税は十常侍趙忠らによって横領されていたため

修繕は遅々として進まなかった。

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