皇甫嵩が罷免されると、同じく戦果をあげられなかった
董卓はなぜか破虜将軍に昇格したが
いまだ成果を上げることはできていなかった。
そのため、董卓は張温の指揮下に置かれることとなった。
出征に際し、張温には執金吾「袁滂」が副将としてつけられ、
盪寇将軍「周慎」も指揮下に置かれた。
また、従軍を願い出た「陶謙」も軍師としてつけられたが、
張温はさらに「孫堅」を参軍として従軍させることを希望したため
孫堅も従軍することとなった。
◆激突前
張温は正規軍の他に諸郡からも兵を集めていると董卓が
「宦官どもを皆殺しにすれば戦わなくとも反乱は治まるだろう」
と誅殺を進言してきたが張温は恐怖にかられてこれを断った。
美陽決戦に備えて集結した10万の兵を布陣していると、
激怒して張温に董卓の処刑を進言した。
しかし、張温は騎兵戦での董卓の能力を買いこれを却下した。
◆激突
韓遂が数万の騎兵を中心とした軍勢で美陽に布陣すると、
まもなく両の激突がはじまったが官軍は押しこまれた。
◆185年11月
夜になると突然、流星群が現れ
韓遂の陣営を照らしながら流れていった。
反乱軍は不安にかられて急遽後退を始め、
官軍の士気は回復。
この期を逃さず、鮑鴻・董卓は反乱軍を追撃し大破した。
張温は周慎に3万の兵を与え孫堅を軍師としてつけ
別動隊でもって楡中城を包囲するように指示を出し、
◆楡中城攻略戦
孫堅は楡中城には十分な兵糧庫がない上に
急遽逃げ込んだので蓄えもないことを調べ上げ、
周慎に対して、
「賊は必ず外から兵糧を運び込みます。
まず私が1万の兵を率いて糧道を絶ちますので、
将軍は本隊を引き連れて後詰めとなり手柄を立ててください」
と述べたが周慎はこれを却下して正攻法をとった。
しかし、周慎の用兵が杜撰なために
ひそかに城を抜け出した敵にあべこべに
官軍の糧道が絶たれた。
すると、周慎は衣類を積んだ
輸送車もなにもかも捨てて逃走し行方不明になった。
◆董卓水計にて難を逃れ、官軍本隊は大敗北す
食料も尽きてきたため脱出を思案していたが、
川の水位を見て水計を思いついた。
董卓は兵に魚をとるように命じ、
それとは別に水流を遮断する部隊を出し、
期が満ちると密かに軍を通過させ、
渡りきるとすぐに遮蔽物を破壊させた。
水流はたちまち激しくなって水位は上がり、
馬を主体とする羌族は追撃をすることができず
董卓は無事に扶風に退くことに成功した。
一方、董卓以外の官軍は次々に蹴散らされて敗走した。
※周慎が外壁を破壊した段階で、
本隊に報告の使者を出していたという記述がある。
(その後、糧道遮断を聞いて周慎は失踪するが)
仮に張温に、あと一歩で韓遂を討てるという報告がきて、
周慎が失踪したためにそのあとの報告がなかったとすると、
官軍にとって予想外の事態が多発して大敗北したのかもしれない。
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◆一方、都では
都では火災が発生し宮殿の一部を焼失。
修繕費として各地に追徴課税され
民が貧困にあえいだが、
修繕は遅々として進まなかった。
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