◆184年 11月
さらに枹罕の宋建・王国が漢に従属していた
北宮伯玉・李文侯を将に立てて反逆した。
しかし、宋建・王国は金城郡までくると、
金城従事韓約と帰順について話をしたいと申し入れた。
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※韓約は隴西方面で名声があり洛陽に職務で行った際、
しかし、何進が断ったため帰郷していた人物。
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韓約は賊に会う必要などないと考えていたが、
太守である陳懿に接見を命じられ、
同じく著名であった新安県令の辺允と共に
反乱軍の元へ向かった。
韓約・辺允らは着くと瞬く間に捕まったが、
王国たちは韓約らを連れて陣を出て偽投降を装い、
城を出てきた陳懿と校尉の伶徴を殺した。
この後、
韓約・辺允は金城の資産家から大金が支払われ
身柄を一時解放されたが、
後に反乱軍に政務官兼軍師として擁立された。
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※二人は改名するが、
韓約・辺允は解放されると韓遂・辺章と改名したというものと、
反逆のうわさが流れ涼州から懸賞金をかけられたので
韓遂・辺章に改名して反逆したというものがある。
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◆討伐軍
185年3月、韓遂が三輔(関中)に侵攻すると
騎兵戦に強い董卓を中郎将として復職させ追討を命じた。
(隠し財産を没収された)十常侍の趙 忠が
賄賂を請求する使者を寄こした。
皇甫嵩はこれを拒否して追い返し、
趙 忠の法令違反を上奏していると
今度は十常侍の張 譲から賄賂の請求がきたため
これも拒否した。
すると趙 忠・張 譲は結託して霊帝に讒言した。
霊帝は張 譲を我が父と呼ぶほど信じ切っていたため
皇甫嵩から車騎将軍の印を取り上げて
涼州討伐軍指揮官を罷免し、
領地の3/4にあたる6000戸も没収し
槐里侯から都郷侯に降格させた。
そして、霊帝は新たに趙 忠を車騎将軍に任命したが
趙 忠はなにかと理由をつけてすぐに辞任したため、
8月に司空の張温が後任の車騎将軍となった。