黄巾の乱が平定されると諸将には次々と恩賞が与えられていたが、
荊州刺史の徐璆は
昔、董太后より姉の子である
南陽太守張忠を特別扱いしろとの命を
国益に反することはできないと拒絶し
張忠とその息のかかったものの不正を摘発していたため
宦官と結託した張忠に罪を捏造され
宛の黄巾「韓忠」征伐戦の戦功と死罪を相殺、
官職追放の罷免処分となった。
黄巾党の内通者であることが発覚したのに
合わせて張譲が内通者であることを上奏したが、
逆に王允の罪をでっちあげて官職を剥奪、
蔡 邕は揚州へと亡命する事態となった。
◆後漢の義将
冀州と槐里県と美陽県の土地が与えられ、
八千戸もの食邑を有する槐里侯となったが、
(左車騎将軍は朱儁)
霊帝がブチ切れて処刑寸前までいった
盧植の話を切り出し、
盧植の行軍は軍略にかなったものであると述べ
盧植の功績を声を大にして称えた。
霊帝は聞いていた話と真逆のことが次々語られて
訳が分からなくなったが、宦官たちにうまいことを言われて
◆皇甫嵩の善政
部下に恩賞を与え汚職を摘発したが、
汚職した官史を処刑せず、
罪は赦すのですべて返すように、
もし、返したなら同じだけのものを
自分の私財から与えるといい、
弁済があれば本当に下賜した。
現実的に皇甫嵩の私財で弁済して罪を免れた
職務を全うするようになった。
また、その年の税が徴収されると
すべて貧困層の支援にあて疲れ果てた民を労った。
皇甫嵩の名声と徳が天下に知れ渡っていくと
信都から閻忠という者が訪れ、
「今の世では名声が身に危険を招くのは明白、
民意に従い独立して天下の軍を集め帝位につくべきだ」
「さもなくば韓信のようになる」
と謀反を勧めてきたが、皇甫嵩はこれを退けた。
閻忠は誅殺をおそれて逃亡した。
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斉王に奉じられた際、70城と強力な軍を持ち、
まずは天下を3分しその後天下を統一できる
反乱のチャンスがあったが忠誠を貫いた。
項羽を討った後には楚王となったが城は50に減らされ、
項羽の名将を匿ったため謀反を疑われて兵権を取り上げられた上、
冷遇され最終的に謀反を計画するが、
それを知った大恩人蕭何におびき寄せられて斬られた。
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