ホントの三国志を考える試み。(正史重視)

三国志正史と史実に近い書を主軸に武将を見つめる試み

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三国志11 論功褒賞(黄巾の乱)と謀反のささやき

黄巾の乱が平定されると諸将には次々と恩賞が与えられていたが、

 

荊州刺史の徐璆

昔、太后より姉の子である

南陽太守張忠を特別扱いしろとの命を

 

国益に反することはできないと拒絶し

張忠とその息のかかったものの不正を摘発していたため

 

宦官と結託した張忠に罪を捏造され

宛の黄巾「韓忠」征伐戦の戦功と死罪を相殺

官職追放の罷免処分となった。

 

 

 

また、凱旋した王允十常侍封諝・徐奉

黄巾党の内通者であることが発覚したのに

合わせて張譲が内通者であることを上奏したが、

張譲は死んだ中常侍王甫侯覧に罪を擦り付け

逆に王允の罪をでっちあげて官職を剥奪

 

後漢の女詩人蔡 琰の父である書家・儒学者蔡邕が非難すると

蔡 邕は揚州へと亡命する事態となった。

 

 

後漢の義将

 

皇甫嵩は凱旋すると、右車騎将軍印綬

冀州と槐里県と美陽県の土地が与えられ、

八千戸もの食邑を有する槐里侯となったが、

(左車騎将軍は朱儁

 

 

皇甫嵩霊帝に謁見すると自身を顧みず

霊帝がブチ切れて処刑寸前までいった

盧植の話を切り出し、

 

盧植行軍は軍略にかなったものであると述べ

 

盧植の功績を声を大にして称えた。

 

 

霊帝は聞いていた話と真逆のことが次々語られて

訳が分からなくなったが、宦官たちにうまいことを言われて

盧植尚書復帰させることで決着した。

 

 

 

皇甫嵩の善政

 

皇甫嵩冀州につくと民の負担を軽減し、

部下に恩賞を与え汚職を摘発したが、

 

汚職した官史を処刑せず、

 

罪は赦すのですべて返すように、

もし、返したなら同じだけのものを

自分の私財から与えるといい、

弁済があれば本当に下賜した。

 

 

現実的に皇甫嵩の私財で弁済して罪を免れた

冀州の官史は汚職を心より恥じ

職務を全うするようになった。

 

 

また、その年の税が徴収されると

すべて貧困層の支援にあて疲れ果てた民を労った。

 

 

皇甫嵩の名声と徳が天下に知れ渡っていくと

信都から閻忠という者が訪れ、

 

「今の世では名声が身に危険を招くのは明白、

 民意に従い独立して天下の軍を集め帝位につくべきだ」

 「さもなくば韓信のようになる」

 

 

と謀反を勧めてきたが、皇甫嵩はこれを退けた。

閻忠は誅殺をおそれて逃亡した。

 

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韓信は覇王項羽を撃ち破った前漢を代表する名将。

 

斉王に奉じられた際、70城と強力な軍を持ち、

まずは天下を3分しその後天下を統一できる

反乱のチャンスがあったが忠誠を貫いた。

 

項羽を討った後には楚王となったが城は50に減らされ、

項羽の名将を匿ったため謀反を疑われて兵権を取り上げられた上、

冷遇され最終的に謀反を計画するが、

それを知った大恩人蕭何におびき寄せられて斬られた。

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