◆175年
盧 植に師事した15歳の男がいた。
彼の名は、劉備・玄徳。(玄徳は字名)
劉備は盧 植に学問を学ぶだけでなく
乗馬・狩猟・音楽を趣味としこれに勤しんだ。
学友である公孫瓚は物事の説明が上手く、
言動も爽やかで劉備と何かと馬があったので
劉備は盧 植のもとを訪れる豪傑を敬い、
褒められても謙虚な姿勢をしたため
豪傑に可愛がられ、それを見ていた者達は
劉備と交友を結びたいと考えるようになっていった。
◆184年 黄巾の乱
すると、同郡にいた張飛という男と、
河東から流れてきた関羽という男がここに加わった。
(画像はwikiより)
義勇兵を率いて校尉であった鄒 靖のもとにはせ参じた。
冀州黄巾が平定されるまで鄒 靖のもとで戦い続け、
乱が終わると安熹県尉に任じられた。
※正史には存在しない人物だが、
演義では中山商人張世平と蘇双が
劉備が人心を集めているのをみて
馬50匹と資金を提供。
※演義の青龍偃月刀は82斤=18kg、蛇矛は長さ1丈8尺。
しかし、蛇矛の長さは解釈がいろいろで、
3.4mになったり、4.4mだったり、5.45mだったりする。
もっと言えば蛇矛を造る技術が後漢にあったかという疑問も。
関羽の青龍偃月刀も18kgどころか、
48~50kgというものもあり、
何を誰がどこまで盛ったのかさっぱり。
後漢書系では18kg、演義は48kgで話を書いているものも。
我ら生まれた日は違えど、死するときは
同じ年、同じ月、同じ日、同じ刻を願わん!
という誓いをたてたというのは演義の創作。
史実の劉焉は洛陽の県令のあと冀州に赴任し、
幽州には行っておらず、劉備には会っていない。
また鄒 靖も辺境・幽州暮らしなので劉焉に仕えていない。
エピソードがあるがそんな奴は正史に存在しない。。