ホントの三国志を考える試み。(正史重視)

三国志正史と史実に近い書を主軸に武将を見つめる試み

三国志9 劉備(若)

◆175年

黄巾の乱の9年前、いとこの劉 徳然とともに後漢の名将

盧 植に師事した15歳の男がいた。

 

彼の名は、劉備・玄徳。(玄徳は字名)

 

劉備盧 植に学問を学ぶだけでなく

乗馬・狩猟・音楽を趣味としこれに勤しんだ。

 

学友である公孫瓚物事の説明が上手く、

言動も爽やかで劉備と何かと馬があったので

劉備公孫瓚を兄のように慕った。

 

 

劉備は盧 植のもとを訪れる豪傑を敬い、

褒められても謙虚な姿勢をしたため

豪傑に可愛がられ、それを見ていた者達は

劉備と交友を結びたいと考えるようになっていった。

 

 

◆184年 黄巾の乱

黄巾の乱が起こると劉備は同郷の簡 雍義勇兵を集め始める。

 

すると、同郡にいた張飛という男と、

河東から流れてきた関羽という男がここに加わった。

清代の書物に描かれた張飛張飛Guanyu-1.jpg関羽

(画像はwikiより)

 

 

劉備張飛関羽護衛とし、

義勇兵を率いて校尉であった鄒 靖のもとにはせ参じた。

 

以降、張飛は数歳上の関羽を兄として慕い、

劉備関羽張飛に対して兄弟のように接しつつ、

冀州黄巾が平定されるまで鄒 靖のもとで戦い続け、

乱が終わると安熹県尉に任じられた。

 

 

 ※正史には存在しない人物だが、

演義では中山商人張世平と蘇双が

劉備が人心を集めているのをみて

馬50匹と資金を提供。

 

これをもとに劉備は500の義勇兵を集め、

劉備は剣、関羽は冷艶鋸(青龍偃月刀)、張飛は蛇矛を造った。

 

 

演義の青龍偃月刀は82斤=18kg、蛇矛は長さ1丈8尺。

 

しかし、蛇矛の長さは解釈がいろいろで、

3.4mになったり、4.4mだったり、5.45mだったりする。

もっと言えば蛇矛を造る技術が後漢にあったかという疑問も。

 

関羽の青龍偃月刀も18kgどころか、

48~50kgというものもあり、

何を誰がどこまで盛ったのかさっぱり。

後漢書系では18kg、演義は48kgで話を書いているものも。

 

 

※桃園に、劉備関羽張飛の3人が集い、

 

我ら生まれた日は違えど、死するときは

同じ年、同じ月、同じ日、同じ刻を願わん!

 

という誓いをたてたというのは演義の創作。

関羽張飛は人前では主従の立場を忘れず臣として振舞った。

 

 

演義では劉焉劉備が謁見するが、

史実の劉焉は洛陽の県令のあと冀州に赴任し、

冀州で刺史から昇進している間に黄巾の乱が起きるので

幽州には行っておらず、劉備には会っていない。

また鄒 靖も辺境・幽州暮らしなので劉焉に仕えていない。

 

 

程遠志・鄧茂が関羽張飛に一撃で討ち取られる

エピソードがあるがそんな奴は正史に存在しない。。

 

 

 

 

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