◆184年6月
西華へと進撃、汝南黄巾を集めた彭脱を討ち、
その勢いのまま陳郡(淮陽県)でも黄巾を蹴散らした。
荀爽・孔融らを引き連れて黄巾の別動隊を討ち
豫州が平定されると官軍に、
新たに指揮官となった趙弘に逆襲された上、
宛城に篭られたとの報が届いたため、本隊は東郡に行き、
◆董卓敗走
護送された盧植だったが、多くの者が宦官からの
自身への敵意を顧みず、霊帝に助命を嘆願したため
官職はく奪処分にとどまった。
(攻城戦は騎兵戦のようにはいかず)手を焼いているうちに
逆襲された責任として免職が言い渡された。
◆184年8月
敵の大将である卜己を生け捕り(のち斬首)、
信徒数十万を降伏させる大活躍をみせると、
北上の命令が来て、手に負えなくなった冀州黄巾討伐戦は
皇甫嵩に丸投げされた。
◆朱儁更迭案
援軍張 超(漢の張良の末裔とも重耳の末裔とも)と合流し
宛城を包囲して攻城準備をしていたが、盧植の前例があるためか
今度は朱儁が更迭されるという噂が流れ始めた。
朱儁は急遽、総攻撃の命令を下さざるを得なかったが、
この総攻撃で趙弘を戦死させることに成功。
敵は韓 忠を新たな大将として抵抗をつづけたものの、
大将の一人であるにもかかわらず孫堅が
自ら城壁をよじ登って敵を斬り伏せる姿をみて
官軍は大いに奮い立ち、韓忠は宛城を捨てて逃げ出した。
韓忠は降伏の意思を示すが朱儁に却下され
抵抗をみせるも朱儁の用兵の前に捕縛され秦頡に処刑された。
韓忠が処刑されると、今度は孫夏が南陽黄巾を率いて抵抗した。