◆184年 4~5月
護烏桓中郎将の宗員を副官とした盧 植は、
諸郡の兵をまとめあげ張角と決戦に臨んだ。
張角は兵が多かったとはいえ雑軍な上、宗教指導者兼医師。
九江蛮討伐、会南夷の反乱鎮圧と実戦経験も豊かであった。
両軍が激突すると張角軍は
たちまち押し込まれ1万人を超える死者を出し、
総崩れとなって敗走した。
張角は何度も周辺の信徒を集め軍を再編したが、
盧 植は一度として不利になることもなく、戦う度に圧勝した。
追い詰められた張角は広宗の城に立て籠もった。
◆184年6月
盧 植が雲梯(攻城用のはしご)を整備していると
霊帝が監察係として左豊を派遣してきた。
左豊は功績が直接霊帝の耳に入れば多大なる恩賞が間違いないと
賄賂を要求したが盧 植は潔癖な人間であったのでこれを拒否した。
左豊の態度を見て部下は賄賂を渡すように言ったが盧 植はこれも断った。
左豊は激怒して足早に戻ると霊帝に、
「盧 植はいつでも攻め落とせる状態にありながら、
まるで張角への天罰を待つかの如くです。
他の大将を向ければ乱は平定されるでしょう。」
というようなことを上奏した。
これを聞いた霊帝はブチ切れ、
「盧 植を罪人として連行してこい」
といい後任の意見を求めた。
すると、胡が侵攻してた際、涼州刺史から騎兵を預かり圧勝し、
その後、張奐将軍の一翼として羌族との戦いでも武功を上げ、
并州(中央の真北)刺史・河東太守となり羌族と戦うこと100戦。
さらに怪力を備え騎射を得意とする武勇の士として
「董卓」の名が挙がった。
盧 植の後任として派遣した。