◆184年3月
しかし、武帝の時代までの大将軍といえば戦上手であったが、
政治権力を持つものがなるような職になっており、
また、政務高官であった陳蕃、前大将軍であった竇武が
宦官粛清を計るが失敗して死に追いやられ、
宦官に批判的な者たちも官職をはく奪されたり
出仕禁止・謹慎処分にされていたため
新たな前線の大将が必要であった。
◆大将決定
そのため霊帝はまず、
北地太守(涼州)であった「皇甫嵩」を招聘して左中郎将に任命。
続いて交州の反乱の際、7郡を指揮して鎮圧し、
諫議大夫として招聘されていた「朱 儁」を右中郎将に任命した。
2将は精鋭4万を率いて、まず潁川方面へと向かうことになったが、
(河南中部・許昌周辺200万人超が暮らす地域)
反乱したら事件なので彼らを特別許すことと、
帝の私財・馬の支援を願い出、霊帝はこれを受け入れた。
※皇甫嵩は弓馬の法と書に通じる文武両才でありながら
在野の身分を貫いていたため、霊帝自ら公車で登用して
北地を任せた後漢の名将。
※不満から民が反乱に加担しているので
帝の私財を放出は軍資金以上の意味がある。
そして、諸郡を統括し
九江蛮族の反乱を打ち破り降伏させた実績を持ち、
儒学・五経・兵法に通じ博学多才、
およそ195センチの長身で剛毅な人間でありながら、
節度を持つことができて失態の不安もなく、
常に世の中のことを思う徳者として人望も厚いとして、
四府の推挙により「盧 植」が選ばれた。
◆南陽落城
一方、同月(3月)、
宛県城を拠点とされたため、
「秦頡」が新たに南陽太守に任命され
南陽黄巾賊の討伐に向かうこととなった。