ホントの三国志を考える試み。(正史重視)

三国志正史と史実に近い書を主軸に武将を見つめる試み

周泰列伝

◆史実

蒋欽と共に孫策に仕えた猛将。

蒋欽は孫策袁術に仕えていたときからいるので

周泰も旗揚げ時にいたと思われ。

(某ゲームや演義系だと江東とってから仲間になったりする)

 

孫策が丹陽をとったあと

孫権がどうしても自分にほしいといって

孫権の直属になる。

 

丹陽太守としてやってきた袁胤を

孫策が追い返したため

袁胤はそれを逆恨みして、

孫策に各地で蹴散らされていた)

山越と結託して攻撃をしかけてくる。

 

孫権のいた城は防御が不十分な上、

寡兵であったため囲まれたが、

周泰が兵を鼓舞しつつ、必死に護ったため

孫権は窮地を脱することができた。

 

このとき周泰12もの傷を負い生死の境を彷徨った

 

 

赤壁の戦いでは、周瑜・程普がそれぞれ3万を率いて出陣すると

周泰も従軍して、そのまま南郡攻撃戦にも参加。

 

 

濡須督になると、諸将が不満を隠そうとせず、

周泰の指揮などあってないようなものだった。

 

周瑜が江夏攻めの指揮を執る前に、江夏攻めに従軍しているが

戦果をあげれていないどころか呉軍は敗走

 

※一方、徐盛は黄祖の子が数千の兵を引き連れせめて来た際、

兵500の指揮官の身分であったが、兵200を巧みに使い圧勝。

黄祖の子は徐盛の守るところには二度と近づかなかった。

 

(ひとことでいえば、孫権のお気に入りだから出世したと思われていた)

 

 

孫権はこれを知ると宴を開き、

濡須の諸将の前でいきなり周泰に服を脱がせた。

 

そして、唖然とする諸将の前で 

傷をひとつひとつ指し、

傷がなぜついたかを周泰に述べさせた。

 

周泰がすべての傷の理由を述べ終わると、

孫権は涙を流しながら「今在る(生きている)のは、周泰のおかげ」だといった。

 

厚遇の理由がようやく分かった

濡須の諸将は納得し

周泰の指示に従うようになった。

 

 

※濡須督になったとはいえ、

曹操の濡須侵攻1次では、甘寧が兵100で夜襲を成功させたり、

事前に魏の進路を呂蒙が予測して土塁を造っておくなど対策していたため魏は攻めあぐねた。

周泰の活躍は・・。

 

第2次侵攻の際も、呂蒙が強弩1万を用意して備えていたためなんとかなった

蒋欽がその強弩隊の一翼との記録はあるが・・

周泰の活躍は・・・。

 

曹丕の代の侵攻時には濡須督は朱桓になっている。

 

 

演義では、周泰赤壁の先棒隊として活躍したり、

夷陵の戦いでは甘寧の仇である沙摩柯を討ち取る。

 

しかし、ほんとのところは

甘寧は没年不明ながら夷陵の戦い

6年前に死んでいたという書物があったり、

周泰自体が夷陵終戦年~7年以内に死亡と記録があるため

そもそも参戦していない可能性も。

 

◆一番の謎は周瑜などが踏んだり蹴ったりに描かれる演義において、周泰はなぜか盛られまくりというところ・・不思議。

 

 

 

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