◆法正は、蜀を代表する策士・謀略家。
中央内政を諸葛亮と指揮する一方、
軍事にあっては、策謀の中心にいて、
事あるたびに劉備は法正に相談するなど
水魚の交わりのようであったという。
曹操が出てきて決戦になった。
戦線が不利となり立て直しが必要となったが、
劉備が臣下の諫めも聞かず後退しないため危険になると、
法正は矢盾もなしに劉備の前に出て、
殿が身を危険にさらされているのです。
私がつまらない男ならば、
先ずは私が盾となって死にましょう。
と言った。
劉備は反省して後退し、軍をたて直し
法正と相談して進退を行った結果、
曹操を撃退することができた。
漢中攻防戦の翌年、法正は過労で死去するが、
その才知は曹操でさえも、
「天下の才あるものをほぼ集めたが、
法正だけは手に入れられなかったか」
と嘆くほどであった。
◆恩あれば倍にして返したが、
恨みも決して忘れず必ず倍以上にして返した。
強烈な私怨のある相手が罪を犯せば必要以上に重く処罰した。
そのため、才知は天才だが、徳は大凡人ともいわれる。
諸葛亮も功績と鬼謀に配慮し厳罰を科せなかった。
漢中後1年で死んだのは天罰だったのだろうか。
◆後世における評価:蜀の郭嘉とも言える人物
法正がいてくれれば出陣はさせず、
仮に強行されたとしても
これほどの損害が生まれることはありえなかったと嘆いた。