ホントの三国志を考える試み。(正史重視)

三国志正史と史実に近い書を主軸に武将を見つめる試み

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法正 列伝

法正は、蜀を代表する策士・謀略家。

 

 

劉璋に見切りをつけ張松と共に曹操と敵対し劉備と結ぶように

仕向けた。劉備龐統に説得されて蜀入りすると仕え、

劉璋焦土作戦をとらないと見抜くなど策謀家として活躍。

 

馬超劉備に降ったあと劉璋が降伏する礎となる

手紙を劉表に送り、成都開城にも貢献した。

 

中央内政を諸葛亮と指揮する一方、

軍事にあっては、策謀の中心にいて、

事あるたびに劉備は法正に相談するなど

水魚の交わりのようであったという。

演義だと諸葛亮劉備水魚の交わりにすり替わっている)

 

漢中侵攻の際に黄忠に策を与え夏侯淵を斬らせると、

曹操が出てきて決戦になった。

 

戦線が不利となり立て直しが必要となったが、

劉備が臣下の諫めも聞かず後退しないため危険になると、

 

 

法正は矢盾もなしに劉備の前に出て、

殿が身を危険にさらされているのです。

私がつまらない男ならば

先ずは私が盾となって死にましょう。

言った。

 

劉備は反省して後退し、軍をたて直し

法正と相談して進退を行った結果、

曹操を撃退することができた。

 

 

漢中攻防戦の翌年、法正は過労で死去するが、

 

その才知は曹操でさえも、

「天下の才あるものをほぼ集めたが、

 法正だけは手に入れられなかったか」

と嘆くほどであった。

 

 

◆恩あれば倍にして返したが、

恨みも決して忘れず必ず倍以上にして返した。

強烈な私怨のある相手が罪を犯せば必要以上に重く処罰した。

そのため、才知は天才だが、徳は大凡人ともいわれる。

 

蜀臣は劉備と法正が水魚状態なので諸葛亮に泣きついたが

諸葛亮も功績と鬼謀に配慮し厳罰を科せなかった。

 

漢中後1年で死んだのは天罰だったのだろうか。

 

 

◆後世における評価:蜀の郭嘉とも言える人物

 

劉備孫尚香に離縁されると呉氏との婚約を薦めた。

 

劉備夷陵の戦いで大敗すると、諸葛亮

法正がいてくれれば出陣はさせず、

仮に強行されたとしても

これほどの損害が生まれることはありえなかったと嘆いた。

 

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