ホントの三国志を考える試み。(正史重視)

三国志正史と史実に近い書を主軸に武将を見つめる試み

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孫堅 列伝

孫策孫堅孫尚香の父。

 

若いころ、海賊の襲撃を発見すると

県の軍勢が向かってきているように見せかけ

海賊を撤退させた。

演義では孫堅がとてつもない武勇で海賊を次々に斬り殺す)

 

 

私怨で荊州刺史を殺害し、さらに南陽太守も殺害。

董卓連合に参加する前に、南陽の支配者となった

袁術に謁見して豫州刺史となる。

 

◆反董卓連合

連合を組んだもののさっぱり攻撃参加しない

役にたたない諸侯に先駆けて曹操軍と出陣する。

 

しかし、徐栄の前に曹操軍も孫堅軍も敗北を喫し、

後退して、袁術に兵糧・援軍を要請した。

孫堅の敗北は袁術が兵糧を送らなかったためとも)

孫堅は後退した後、袁術に上は漢のため、

 下は袁術のためと言って支援を受けたとも)

 

 

援軍を受けた孫堅は再度、戦場に赴く。

すると董卓は、胡軫呂布を差し向ける。

 

ところが、胡軫呂布の仲は最悪だったため

呂布が手柄をとられないように胡軫の軍に誤情報を流した。

 

胡軫の軍は混乱し、孫堅は好機とみるや出陣して突撃し、

胡軫旗下の華雄を討ち取るなど圧勝した。

 (演義では華雄に負けて行方不明になる)

 

その後の孫堅は破竹の勢いで進撃したため、

董卓は寝返りの使者を出したが、

漢の忠臣である孫堅はこれを拒絶して追い返し、

洛陽へ向けて進撃した。

 

孫堅の勢いが凄まじく手に負えないので

董卓は洛陽に火を放って長安へと逃げた。

 

 

孫堅は洛陽に入り、董卓が荒らしまくった

皇室の墓を修復したり、瓦礫を片付けたり、

御陵や霊廟を掃き清め、

穴があれば埋めたため

諸侯は次々に孫堅を褒めたたえた。

 

演義では皇帝の証明とされる玉璽を見つけて

洛陽から逃亡をはかり袁紹に攻撃されて重臣死亡。

荊州では劉表にも追撃されて臣も兵もかなりの数が死亡して

劉表と史実にない私怨が発生したりする)

 

 

その後、孫堅は一度帰路につくことにしたが、

袁紹豫州は俺のものだとして

部下を送ってきたため豫州戦争になって

連合は崩壊、おまけに負けて豫州も失った。

 

(このとき援軍として袁術がよこしたのは公孫瓚から

ご機嫌伺いでもらった公孫越率いる部隊。

もっとちゃんとしたのが来ていたら勝ったかもしれない)

 

 

袁術劉表と不和になって

公孫袁術同盟に対抗して、袁紹袁紹劉表同盟をしたので

 

袁術の命令で劉表を攻撃。

黄祖をはじめ荊州軍を打ち破り、

襄陽を包囲するところまでいったものの、

 

峴山に登って作戦を練ろうとした際、

成果に関してせっかちな性格が災いして、

部下を置き去りにして単騎で登っているのを

黄祖の部下に見つかり射殺された。

演義では蒯良の策にかかり矢嵐・落石計を受けて最後を遂げる)

 

◆死後

孫堅劉表の臣下を捕虜にしていたため

孫策はこれを差し出して孫堅の遺体を取り戻した。

 

 

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