若いころ、海賊の襲撃を発見すると
県の軍勢が向かってきているように見せかけ
海賊を撤退させた。
◆反董卓連合
連合を組んだもののさっぱり攻撃参加しない
役にたたない諸侯に先駆けて曹操軍と出陣する。
後退して、袁術に兵糧・援軍を要請した。
下は袁術のためと言って支援を受けたとも)
援軍を受けた孫堅は再度、戦場に赴く。
その後の孫堅は破竹の勢いで進撃したため、
董卓は寝返りの使者を出したが、
漢の忠臣である孫堅はこれを拒絶して追い返し、
洛陽へ向けて進撃した。
孫堅の勢いが凄まじく手に負えないので
皇室の墓を修復したり、瓦礫を片付けたり、
御陵や霊廟を掃き清め、
穴があれば埋めたため
諸侯は次々に孫堅を褒めたたえた。
(演義では皇帝の証明とされる玉璽を見つけて
洛陽から逃亡をはかり袁紹に攻撃されて重臣死亡。
劉表と史実にない私怨が発生したりする)
その後、孫堅は一度帰路につくことにしたが、
部下を送ってきたため豫州は戦争になって
連合は崩壊、おまけに負けて豫州も失った。
ご機嫌伺いでもらった公孫越率いる部隊。
もっとちゃんとしたのが来ていたら勝ったかもしれない)
襄陽を包囲するところまでいったものの、
峴山に登って作戦を練ろうとした際、
成果に関してせっかちな性格が災いして、
部下を置き去りにして単騎で登っているのを
黄祖の部下に見つかり射殺された。
(演義では蒯良の策にかかり矢嵐・落石計を受けて最後を遂げる)
◆死後