「三国志演義」
主として諸葛亮の引き立て役にされた挙句、
最後、重篤な状態で諸葛亮の挑発文を読み、
孔明は何もかも見通していた。と嘆息した後、
「天はこの周瑜を生みながら、
なぜ孔明までも生んだのか!!」
と叫び、血を吐いて死亡する。
「正史三国志」
孫策の旗揚げ時に帯同し劉ヨウを破る。
その後、いろいろあって呉に亡命。(別述)
孫策が死亡し、遺言により呉の軍権をはじめ様々なことを
指揮する立場になると、程普をはじめ一部が裏で
不満を言ったり侮辱していた。
しかし、周瑜は立場が変わっても
老臣を敬い、礼を尽くし、功あれば立てた。
この謙虚さと才知は程普らの感嘆を生み、
周瑜は「呉の柱石」と認められたのである。
一方、後を継いだ孫権も臣下から懐疑的な目が向けられていたが、
率先して徹底した臣下の礼を取ったため、
もはやだれも何も言えなくなり、
おのずと皆、臣下の礼をとるようになった。
麻・保を制圧し1万人余りを捕虜とした。
黄祖が鄧龍を大将として柴桑に侵攻してくると、
迎撃して逆に鄧龍を捕虜とした。
周瑜は前線総都督に任命され出陣した。
199年以降呉の攻撃を受けていたが、
呉の2将を討つなど防衛に成功していた。
しかし、この208年の江夏侵攻は周瑜が指揮していた上、
江夏の海路・陸路共に精通する甘寧がいたため、
攻撃は凄まじく、江夏は陥落した。
◆赤壁
曹操への降伏に傾く呉国にあって、孫権・魯粛に呼び出されると、
「曹操とは漢の賊」と言い、
「この呉が負けるわけのない理由」「敵の弱点」
を堂々と述べ、疫病の予想も立てた。
これにより、孫権は決心し、
周瑜・程普がそれぞれ精鋭3万ずつを引き連れ出陣すると、
曹軍は疫病で狼狽しており圧勝。
一戦で後退した曹操に対し、
今度は黄蓋が降伏船を装って接近し次々と火を放った。
火はたちまち燃え広がり、
船をすべて焼き尽くし、飛び火して陣営まで焼き払った。
(降伏策は黄蓋が提案)
大敗した曹操が南郡へ逃れると、
ついに、曹軍は守将を残して撤退した。
◆荊州攻略戦
別働隊の甘寧の危機を救援した後、
曹仁との戦いで流れ矢を脇腹に受けて重傷を負うものの、
兵の前では重傷を隠して指揮を執り続け曹仁を破り、
さらに劉備の4郡(長沙・零陵・武陵・桂陽)攻略を主導した。
天下を取る計画を考えたが孫権に却下される。
(演義では美女連環だったり、酒池肉林などを失敗する)
篭絡策が却下されると、
同時に自身は襄陽より主力を率いて北上する作戦を立てる。
漢室再興派であったため、
孫劉馬同盟は実現可能であった)
しかし、益州侵攻の準備にとりかかっている最中に
急変して36歳の若さで死亡した。
◆死後
呉の臣民は嘆き悲しみ、諸葛亮もその才知を惜しんだ。
孫権は葬儀費を出すだけでなく、
周瑜のいかなる国法違反が露見したとしても
一切の処罰をしてはならないと指示を出し、
帝位についた際には、
いまの自分があるのは周瑜のおかげであると言った。