ホントの三国志を考える試み。(正史重視)

三国志正史と史実に近い書を主軸に武将を見つめる試み

周瑜 列伝

三国志 周瑜 列伝

 

三国志演義

孫策と義兄弟。正史では、中国史に残る名将でありながら、

主として諸葛亮の引き立て役にされた挙句、

 

最後、重篤な状態で諸葛亮の挑発文を読み、

 

孔明は何もかも見通していた。と嘆息した後、

 

 

「天はこの周瑜を生みながら、

 なぜ孔明までも生んだのか!!」

 

 

と叫び、血を吐いて死亡する。

 

 

正史三国志

孫策の旗揚げ時に帯同し劉ヨウを破る。

その後、いろいろあって呉に亡命。(別述)

 

孫策が死亡し、遺言により呉の軍権をはじめ様々なことを

指揮する立場になると、程普をはじめ一部が裏で

不満を言ったり侮辱していた。

 

しかし、周瑜は立場が変わっても

老臣を敬い、礼を尽くし、功あれば立てた。

この謙虚さと才知は程普らの感嘆を生み、

周瑜「呉の柱石」と認められたのである。

 

 

 

一方、後を継いだ孫権も臣下から懐疑的な目が向けられていたが、

 

周瑜孫権には確かな才覚と機運があることを見抜き、

率先して徹底した臣下の礼を取ったため

もはやだれも何も言えなくなり、

おのずと皆、臣下の礼をとるようになった。

 

 

孫瑜の山越討伐に際し、その将兵の監督役として帯同・助力し

麻・保を制圧し1万人余りを捕虜とした。

 

 

黄祖が鄧龍を大将として柴桑に侵攻してくると、

迎撃して逆に鄧龍を捕虜とした。

 

後に亡命してきた甘寧黄祖討伐を献策すると

周瑜前線総都督に任命され出陣した。

 

 

黄祖は、配下が孫策孫権の父である孫堅を射殺したため、

199年以降呉の攻撃を受けていたが、

呉の2将を討つなど防衛に成功していた。

 

しかし、この208年の江夏侵攻は周瑜が指揮していた上、

江夏の海路・陸路共に精通する甘寧がいたため、

攻撃は凄まじく、江夏は陥落した。

黄祖は逃亡を図ったが、騎兵の則に追いつかれて討たれた。

 

 

赤壁

曹操への降伏に傾く呉国にあって、孫権魯粛に呼び出されると、

 

曹操とは漢の賊」と言い、

「この呉が負けるわけのない理由」「敵の弱点」

を堂々と述べ、疫病の予想も立てた。

 

 

これにより、孫権は決心し、

周瑜・程普がそれぞれ精鋭3万ずつを引き連れ出陣すると、

曹軍は疫病で狼狽しており圧勝。

 

 

一戦で後退した曹操に対し、

今度は黄蓋が降伏船を装って接近し次々と火を放った。

 

火はたちまち燃え広がり、

船をすべて焼き尽くし、飛び火して陣営まで焼き払った。

(降伏策は黄蓋が提案)

 

 

大敗した曹操が南郡へ逃れると、

周瑜曹操の動きを察知し劉備と合流して追撃。

ついに、曹軍は守将を残して撤退した。

 

 

荊州攻略戦

別働隊の甘寧の危機を救援した後、

曹仁との戦いで流れ矢を脇腹に受けて重傷を負うものの、

兵の前では重傷を隠して指揮を執り続け曹仁を破り、

さらに劉備の4郡(長沙・零陵・武陵・桂陽)攻略を主導した。

 

 

その後、劉備を篭絡し関羽張飛を指揮下におき

天下を取る計画を考えたが孫権に却下される。

演義では美女連環だったり、酒池肉林などを失敗する)

 

 

篭絡策が却下されると、

劉備を4郡にとどめ、益州に侵攻し、

益州孫瑜の旗下とし、馬家と同盟して曹操へ侵攻させ、

同時に自身は襄陽より主力を率いて北上する作戦を立てる。

 

(正史の孫権は、当時は馬騰劉備と同じ

 漢室再興派であったため、

 孫劉馬同盟は実現可能であった)

 

しかし、益州侵攻の準備にとりかかっている最中に

急変して36歳の若さで死亡した。

 

 

◆死後

呉の臣民は嘆き悲しみ、諸葛亮もその才知を惜しんだ。

 

孫権は葬儀費を出すだけでなく、

周瑜のいかなる国法違反が露見したとしても

一切の処罰をしてはならないと指示を出し、

 

帝位についた際には、

いまの自分があるのは周瑜のおかげであると言った。

 

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