◆史実
◆西国一の猛将で合戦に強いだけでなく、
宗茂自身がとんでもない武芸の達人。
(剛勇鎮西一)
戸次家伝来の名刀・笈切り兼光を持ち馬上で敵兵七人を斬り伏せ、
横撃して来た有働下総守と一騎討ちして討ち取った。
朝鮮・明軍との戦いでは、
立花・高橋軍およそ3,000が敵本陣へ突撃し白兵乱戦になると、
宗茂自身は馬にまたがり長槍や長刀を提げ、
一騎駆し敵兵将15人を斬殺。
明軍の進撃を食い止めた際には、騎馬が敵の血で染まり朱く変色し
鞍に下げた敵将の首4つも朱色になった。
小早川隊などが到着し戦いが終わったころには
刀は曲がり鞘に戻せないほど敵を斬り殺していた。
小早川隆景からは「立花家の3,000は他家の1万に匹敵する」と評価され、
秀吉からも「日本無双の勇将たるべし」と感謝状が贈られた。
鬼の名といえば鬼島津の方が有名だが、
宗茂も民から「鬼将軍」と呼ばれ敬慕された。
◆高橋家から立花に婿にいくとき
父)高橋紹雲から懐刀をもらい、
父:高橋と立花が敵対したらどうするか?
宗茂:「なにがあっても高橋にはせ参じます」
父:道雪殿はそういう未練を嫌う、
父:「そうなったら先陣となり父の首を取るように、
もしできないならその刀で自分の腹を切るように」
宗茂は生涯この刀を肌身離さず持ち
親への感謝を忘れませんでした。
◆兵法・用兵・人心掌握の達人。
謙信公が8000の兵が自分に最も適しているといわれたように、
自分は2000の兵を得意としている。
寡兵だから嘆くというのは違うといいました。
また、手柄を立てれば報われる、悪いことをすれば罰せられる、
必死に働けば相応のねぎらいが受けられる、
兵民のレベルではどうにもならないことが起きれば支援という
善政の見本みたいなことをしていたので、
何も言わなくとも臣兵民みなキリキリ働き、
戦いとなれば、どんな敵にも勇猛果敢に向かっていきました。
◆戦国屈指の仁徳者
激しい攻防戦を繰り広げていましたが、
すると、日ごろから宗茂を慕っていた臣・兵、
領民たちは自ら集まり、宗茂の身を案じ、
最後まで戦いたいといいだしました。
しかし、宗茂がそなたたちを死なせたくない
と説得すると民は涙を流して見送りました。
◆天下に隠れなき名将
徳川家康は大阪の陣の前に、
なんとしてでも宗茂だけは味方に付けたいと思い
何度も説得を試み助力を取り付けました。
謙信・信玄・信長と肩を並べる将として褒めまくっていましたが、
名前をあげていなかったため、
本多は誰のことだ??? と思い名を聞くと、
家康は、天下に隠れなき立花宗茂のことだといいました。
◆唯一の旧領回復大名
西軍についた大名のうち唯一旧領の8割以上
(10.5/13万石)を回復し城にもどると、
関ケ原のあとに生まれ統治下であったことのない子供たちですら、
父母から宗茂のことを聞いていたため自ら出迎えに赴くなど、
時を経ても人気は絶大でした。